任天堂のホームページに、
花札の歴史は安土・桃山時代の「天正かるた」、江戸時
代上期の「ウンスンカルタ」から、江戸時代中期に現在
使用している花札ができたと言われています。花札ゲー
ムの中でも2人でプレイする「こいこい」は、勝負勘・
度胸・かけひき・冷静さを必要とする知的ゲームです。
とあります。安土桃山時代に宣教師がキリスト教や鉄砲など
と共にカードゲームを伝えたとされています。「かるた(歌留多、骨牌)」の語源は、ポルトガル語でカードゲームを示す「carta」だそうです。天正時代(1573〜91)にはすでに国産のかるたが作られていて、江戸時代には全国に普及しました。賭博という側面からかるたへの禁制は安永のころから厳しくなっていきます。とくに寛政の改革では売買が厳しく禁止されました。花札はこの禁制からの抜け道として、それまで12枚×4スートであったものを、花札では数字とスートの記号を隠すために4枚×12か月とし、図案には主に教育用に用いられていた和歌カルタをモチーフとしたのです。しかし、花札もすぐに禁止されたそうです。明治初期にも花札は禁止されてい増したが、明治19年(1886)に販売が解禁され、これ以降花札は大いに流行したそうです。
なお、李朝末期に朝鮮半島に花札が伝えられて花闘(ファトゥ)とよばれています。赤短、青短の短冊にはハングルで書かれています。日本では伝統的なカードゲームといった地位に落ち着いている花札ですが、韓国では現在でも「3人集まれば必ず花闘をする」と言われるほど人気があり、「国民ゲーム」といわれているそうです。花札は延辺朝鮮族自治州などの中国朝鮮族の間でも行われているそうです。戦後、韓国で花札賭博が横行し社会問題になったほか、北朝鮮では花札は禁止されているとのことです。
花札の「松に鶴」にあるように「梅に鶯」同様お決まりの取り合わせです。松も鶴も縁起の良いものの組み合わせで、松の木にとまっている鶴が描かれてものを見かけますが、実際、自然界ではありえないことで、鶴は木にとまれないそうです。なお、梅に飛んで来る鳥は鶯でなくメジロで、鶯は人の目につく所には現れず、メジロは梅の花の蜜を吸いにくるとのことです。
飛鳥井雅章の短冊「対鶴争齢(たいかくよわいをあらそう)」です。
對鶴争齢
立ち並ぶ四本(しもと)の松に友鶴の
なれて千歳を契り置けん
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