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執筆者の写真木津宗詮

涅槃会

今日2月15日は釈迦が入滅した日で、各地の寺院で涅槃会が催されます。また泉涌寺や東福寺等などはひと月ずらして行っています。涅槃会では、釈迦の涅槃すなわち入滅 の情景を表わした涅槃図が掛けられます。私の家も、今日は床に涅槃図を掛け、手向けの花として浄益作になる青銅経筒の花入に加茂本阿弥椿と曙椿、梅を入れ、華籠に椿種々を盛り釈迦を偲びます。

35歳の時に釈迦は尼連禅河(にれんぜんが)のほとりの菩提樹の下で悟りを開きました。その後45年間インド各地に布教しました。80歳の時、生まれ故郷へ向かう途中の波婆(はば)城で鍛冶屋の純陀(じゅんだ)に法を説き、供養として茸料理の布施を受け、それを食べて食中毒になりました。

拘尸那竭羅(くしながら)の跋提河(ばつだいが)のほとりで、弟子の阿難(あなん)に命じて、2本並らんだ沙羅双樹(さらそうじゅ)の間に床を用意するように命じました。そして頭を北、右脇を下にし、両足を重ねて静かに体を横たえました。これを頭北面西右脇臥(ずほくめんさいうきょうが)といいます。頭を北に向けて寝ることは、地球上の磁場と血液の流れが一致することにより、一番安定した安らぎを得る状態だそうです。遺体を北枕にするのは、釈迦の涅槃に準じての風習です。この時、悲しみのあまり沙羅双樹は時ならぬ花を開きました。この8本の沙羅双樹は、4本は釈迦の最後の説法が終わるとたちまちに枯れ、他の4本は青々と栄えました。これを四枯四栄(しこしえい)といい、釈迦の肉体は涅槃に入りましたが(四枯)、説かれた仏法は後世に残って栄える(四栄)こといいます。ちなみに、日本では「夏椿」のことを沙羅双樹と呼んでいます。朝に咲いて、夜には花が落ちることから、「はかないもの」の代名詞とされています。

沙羅双樹の枝に錫杖(しゃくじょう)と共に錦袋が掛かっています。忉利天(とうりてん)の釈迦の母・摩耶(まや)夫人に阿那律尊者(あなりつそんじゃ)が釈迦が入滅したことを報告ました。さっそく摩耶夫人は阿那律尊者の先導で雲に乗り地上に下ってきます。そして摩耶夫人は起死回生の霊薬を錦袋に入れて釈迦めがけて投げますが、たくさんの鳥に邪魔をされ沙羅双樹の枝に引っかかって釈迦には届きませんでした。なお、医師が患者に薬を与える「投薬」という語はこのことが元になっているという説があります。

ちなみに涅槃図には多くの動物が描かれていますが猫はいません。木に引っかかった薬袋を鼠が取りに行こうしたら猫が邪魔したため、薬を飲めず釈迦が亡くなったので猫が描かれていないとされています。ただし東福寺の涅槃図には猫が描かれていることから「猫入り涅槃図」と特に呼ばれています。明兆(みんちょう)がこの涅槃図を描いている時、一匹の猫がどこからともなく現れて絵具を運んで見事な絵が完成したので猫を加えたと伝えられています。

釈迦が臨終した時、阿難は悲しみのあまり気を失い、まるで死人のように地に倒れました。阿泥樓駄(あぬるだ)は、清冷の水をもって阿難の顔に注ぎ、助け起こしようやく阿泥樓駄の声で正気に戻ることができました。

釈迦の入滅のきっかけを作った純陀が新にご飯を差し出しています。釈尊の足をさすている毘舎離(びしゃり)城の老女は、釈尊の45年間の布教に歩いた足をさすり慰め涙を流しています。

観音や弥勒、地蔵などの菩薩、帝釈天と四天王、釈迦の教えを守護するための眷属(けんぞく)となったとされる阿修羅(あしゅら)や迦樓羅(かるら)、竜、緊那羅(きんなら)などの八部衆(はちぶしゅう)、舎利佛(しゃりほつ)や目連(もくれん)、富楼那(ふるな)、須菩提(すぼだい)等十大弟子、速疾鬼(そくしつき)という夜叉(やしゃ)、月蓋(つきがい)長者や純陀(じゅんだ)長者など在家の弟子など51人の人物。迦陵頻伽(かりょうびんが)や孔雀、象、犬など45種類の動物、鳥、昆虫までも泣き悲しんでいる姿が画かれています。このように涅槃図には多くの物語が描かれています。

わが国最古の涅槃図は平安時代に描かれた金剛峯寺本です。最大のものは泉涌寺の図で、もともと東大寺の大仏殿に掲げるために描かれたもので、縦16m×横8mの巨大ない涅槃図で、あまりの大きさから泉涌寺の仏殿の壁に掛からず、堂内の天井から地面にかけて「コ」の字型に折り曲げて掲げられています。私の手元の涅槃図は、一般のものに比べて誠に小さなもので、絵もとても素朴なものです。作者は不明ですが、安政三丙辰朧八日に志道なる人物が画かせた旨が外題に認められています。






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