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執筆者の写真木津宗詮

牡丹

上田耕甫の牡丹図です。


日本名のボタンは、中国名の「牡丹」の日本読みです。中国語の発音はモウタンで、「丹」は赤い色を指し、地際から出てくる芽は「牡」で、そこで「牡丹」だそうです。

古来、牡丹は「百花の王」とされます。芍薬はその気品に及ばず「花宰相」です。別名に「百花王(ひゃっかおう)」「花王(かおう)」「花神(かしん)」「花中の王」「百花の王」「天香国色(てんこうこくしょく)」「富貴花(ふうきか)」「富貴草(ふうきそう)」「二十日草(はつかぐさ)」「深見草(ふかみぐさ)」「忘れ草」 「名取草(なとりぐさ)」「深見草」「忘れ草」「鎧草(よろいぐさ)」深見草等があります。

「天香国色」は、李正封(りせいほう)の詩句「国色朝(あした)に酒を酣(たの)しみ、天香夜に衣を染む」により、天のものかと思うばかりの妙なる香りで国中で第一の美しい色という意味です。そうしたことから美人の代名詞として用いられます。

「富貴花」は「花開富貴(はなはふうきにひらく)」という句から百花の王である牡丹の別名となりました。なお、中国で旧正月に自分の家や部屋のの入り口の両側に「春聯(しゅんれん)」という赤い一双の紙に縦書きでめでたい文言を書いて張ります。「花開富貴」の対になるのが「竹報平安(たけはへいあんをほうず)」で、竹が平安を運んでくるという意味です。

「二十日草」は、白居易の『牡丹芳(ぼたんほう)』という詩に、「開花花落二十日。一城之皆若狂(花、開いて落つる二十日間、一城の人皆狂へるが若し」によります。唐の牡丹の逸話に、則天武后がとある雪見の日、庭が余りに殺風景なのに怒った武后は、百花精たちに、「さっさと咲かせよ」

と命じ、彼女の怒りを恐れた花々は真冬の最中に一生懸命花を咲かせました。ところが牡丹は、そんな不条理なことはできないと拒否しました。最も寵愛した花の反抗に怒った武后は、部下に命じて、牡丹の株全てを焼き払い、洛陽を追放されました。ところが翌年にはさらに美しい花を咲かせたことから、武后はそれ以上の暴虐は働かなかったとのことです。また楊貴妃の作ったとされる「一捻紅(いちねんこう)」という牡丹があります。いわれは急に玄宗のお召しがかかった時、気が動転して、侍女の差し出した白牡丹を、紅が付いた指で摘んでしまいました。白い花びらに、彼女の指の紅が残って「一捻紅」という品種が生まれたとのことです。

「深見草」は『出雲国風土記』に牡丹と書いてフカミグサと読ませていて、平安時代に深見草と漢字を当てるようになったことによります。

牡丹は大輪の幾重にも重なり合う花びらの華麗な姿から、「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」と美しい女性の容姿や立ち居振る舞いを形容する言葉として用いられています。芍薬は すらりと伸びた茎の先端に美しい花を咲かせ、枝分かれすることなく立っています。牡丹は 枝分かれするので横に張りあたかも座っているかのようです。百合は しなやかな茎の先にややうつむき加減に花に風をうけると揺れ、さも歩いているようです。

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