蹴鞠

 今年の七夕は8月25日となります。例年、七夕の冷泉家の乞巧奠に出演しますが、残念ながら今年はコロナのために中止となります。乞巧奠では蹴鞠、管弦、披講、流れの座の順に行われます。旧暦では7月から秋となり、七夕は初秋の行事となります。ですが、昨日の東京の稽古で敢えてて蹴鞠の枝鞠の画賛を掛け、花所望をし、裏千家の玄々斎考案になる葉蓋の点前をしました。菓子は井内さんがご用意下さった仙太郎の「二ツ星」干菓子は松江の三英堂の「季子ごよみ」でした。


 この機会に蹴鞠関係の軸と蹴鞠について紹介します。

記録に残された最初のものは中国の前漢の司馬遷の『史記』の「蘇秦列伝」に、紀元前300年頃の春秋戦国時代の斉(紀元前386〜紀元前221)の国の都、臨淄(りんし)で行われていたことが記載されています。そしてFIFAは2004年に臨淄をサッカー発祥の地と認定しています。

 漢代には12人のチームが対抗して鞠を争奪し「球門」に入れた数を競う遊戯となり、宮廷内で大規模な競技が行われたそうです。のちにルールも多様化し、チーム対抗の競技としての側面が薄れ、一人または集団で地面に落とさないように鞠を蹴る技を披露する遊びとなったとのことです。そしてモンゴルの世界帝国により東欧にも伝わりました。明代初期には大流行し、貴族や官僚が蹴鞠に熱中して仕事をおろそかにするという事例もあったそうです。そこで朝廷は蹴鞠の禁止令を出し、もっぱら女性の遊戯となったそうです。さらに清代では明の禁止令を引き継ぎ、その後、蹴鞠は中国からはほぼ完全に姿を消しまったとのことです。なお、現在、中国では近年復活させた蹴鞠が国家無形文化遺産に登録され観光事業として行われています。中国が蹴鞠やサッカーやラグビーのルーツとして、臨淄に観光事業として博物館が建てられています。

 わが国には仏教などと共に中国より渡来したとされています。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が鞠を蹴った際に皇子が落とした靴を中臣鎌足(なかとみのかまたり)が拾ったことをきっかけに親しくなり、これがきっかけで大化の改新の大業へとつながったとされています。文武天皇の大宝元年(701)には日本で最初の蹴鞠の会が開かれています。平安時代には貴族達は自身の屋敷に鞠場(まりば・まりにわ)と呼ばれる専用の練習場を設けて広く親しまれるようになりました。そして天皇はじめ公家・武士・神官から庶民に至るまで老若男女の別無なく親しまれたとのことです。特に鎌倉時代に至っては、「蹴鞠の長者」といわれるほど蹴鞠を愛好した後鳥羽上皇の頃には非常に盛大なものになっていきました。また、このころ、蹴鞠に関する種々の儀式や制度がほぼ完成しました。そして蹴鞠が和歌とともに「歌鞠両道(かきくりょうどう)」と称えられるようになります。

 平安後期の藤原成通(なりみち)は特に希代の名人とされ「蹴聖」とよばれています。「台盤に乗って鞠を蹴ったが音一つしなかった」とか、「侍の肩の上に乗って鞠を蹴ったが当の侍はそれに気付かなかった」、「成通が蹴る鞠は雲に届いた」、「清水の舞台の欄干を蹴鞠をしながら一往復した」など成通の神業が伝承されてられています。また、後白河院に仕えた藤原頼輔(よりすけ)の名声は特に高く、その子孫である難波・飛鳥井両家は蹴鞠の家として明治にいたります。そして明治天皇の蹴鞠を保存せよとの勅命と御下賜金をもって、明治40年に飛鳥井家蹴鞠を伝える蹴鞠保存会(しゅうきくほぞんかい)が設立されて現在に至っています。

 「蹴鞠保存会」のホームページによりますと、蹴鞠は四隅、すなわち艮(うしとら・北東)に「桜」、巽(たつみ・東南)に「柳」、坤(ひつじさる・西南)に「楓」、乾(いぬい・北西)に「松」の「元木(もとぎ・鞠を蹴り上げる高さの基準となる木)」を植え、7間半四方に砂を敷いた「懸(かかり)」または「鞠壺(まりつぼ)」・「鞠庭(まりにわ)」と呼ばれる広場の中で行われます。鞠を蹴る人を『鞠足(まりあし)』といい、蹴鞠を行う鞠足の人数は普通8人または6人で-座を組ます。一番最上位の人が軒(のき)と呼ばれ、軒から鞠庭に入っていきます。鞠足たちは鞠庭を8または6方位に分けた位置に立ち、南面の鞠庭で北西の位置を「一」の懸かり(軒・のき)といい、以下、南東を「二」、北東を「三」、南西を「四」とし、この4人の鞠足が軸となって鞠を蹴ります。「五」以下の者は「つめ」と言い、外れた鞠を蹴り戻す役目をします。初め『小鞠』と言って足馴らしをし、「軒(-)」からあげ鞠を始め、「アリ・ヤウ・オウ」とかけ声を掛けながら麗しく鞠を蹴ります。勝敗も制限時間も無く、最後は軒が判断して「二」から「軒」に鞠を渡して鞠庭の中央に転がし一座が終わります。その後、しばらく休息を取り、次の二座に移り、興が進むと、三座、四座というように鞠足のメンバーを替えて蹴るそうです。正式の蹴鞠会では「見証」の座が設けられ、蹴鞠の状況がつぶさに記録されます。また、神前や仏前などで蹴鞠を行う時は、事前に季節の木の枝に鞠を紙縒(こより)で結びつけられた「枝鞠(えだまり)」に祈念し、鞠庭で一座の長老である解役(ときやく)により『解鞠(ときまり)』の儀式をしてから始められます。

 鞠は中が空洞で、鹿の滑革(ぬめかわ)2枚を円形にし、毛のあるほうを内側にして周りを馬の革で縫い合わせたものです。小穴より大麦の穀粒を詰め込んで内側から張り膨らませ、十分形を整えた後に鉛白で化粧をし、穀粒を抜いてから綴じられています。

 鞠装束は、上衣の方を「鞠水干(まりすいかん)」と言い、金紗(きんしゃ)、紋紗(もんしゃ)・繍(ぬいとり)・摺箔(すりはく・印金)など、階級によって種々の色目があります。下衣を「鞠袴(まりはかま)」と言い、葛布(くずふ)で指貫(さしぬき)仕立ての括袴(くくりはかま)です。烏帽子は、立烏帽子(たてえぼし)・風折鳥帽子(かざおりえぼし)・侍鳥帽子(さむらいえぼし)などが用いられていました。鞠沓(まりくつ)とよばれる沓と襪(しとうず、靴下)とを縫い付けた鴨沓(かもくつ)が用いられます。

 鞠の蹴り方は、地面に落ちるまでをよく見通して、右・左・右の足の運びの三挙動目に合わせ、鞠の落ちる地上寸前に足の甲に当てて蹴り上げるものだそうです。その要領は鼓を打つ手拍子のようでないと爽やかな音が出ないとのことです。動作はすべてすり足で行い、ちょうど水鳥が水面を滑り泳ぐかのように動き、上半身は動かさないことになっています。