拙叟宗益夢置字一行「夢 人間(じんかん)一生皆如此」です。
夢 人間一生皆如此
前大徳拙叟書(印)
茶の湯の世界ではしばしば追善の会にかけられる句です。人の一生なんかはかない夢の様なものだったという意味で使われています。
人間(じんかん)五十年、下天(げてん)の内をくらぶれば、夢幻の如くなり
幸若舞「敦盛」の一節で、本能寺の変で信長がこの一節を歌って舞をしたと伝えられます。人間世界の50年間は、天上界の時間に比すれば一瞬のまぼろしに過ぎない、ということです。長寿時代といても、たかが百やそこら、まさに天上界からみれば生まれては直ぐ消える泡のようなはかないものです。大きな観点からみれば、人の一生なんかまさに一時の夢なのです。
古代中国の古典である『荘子』の斉物論篇に、
昔者荘周夢為胡蝶、栩栩然胡蝶也、自喩適志与、不知周也、俄然覚、則蘧蘧然周也、不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与、周与胡蝶、則必有分矣、此之謂物化
昔者(むかし)、荘周(そうしゅう)は夢に胡蝶(こちょう)と為(な)る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。自ら喩(たの)しみて志に適するかな。周たるを知らざるなり。俄然(がぜん)として覚むれば、則(すなわ)ち蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。周と胡蝶とは、則ち必ず分有り。此(こ)れを之(これ)物化(ぶっか)と謂(い)う。
いつのことだったかわたし荘周は自分が胡蝶となった夢を見た。楽しくひらひらと飛びまわり自由であった。自分が荘周である事など考えもしなかった。はっと目覚めると、わたしは紛れもなく荘周ではないか。果たして、人である荘周が夢の中で蝶になっていたのか、それとも自分は実は蝶で、その蝶が夢を見る時に人である荘周になっているのか。いずれがほんとうのわたしかわからない。荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。
「斉物論」とは「万物は全て斉しい(等しい)とする論」とされ、是非・善悪・彼我を始めとした区別は絶対的なものではないことを主張しています。この説話でも、夢と現実(胡蝶と荘子)の区別が絶対的ではないとされると共に、とらわれのない無為自然の境地が暗示されていのです。
うれしいこと悲しいことに振り回されても所詮は夢なのです。夢と思ってあきらめるしかないのですね。今抱えている諸問題も夢なのだと思おう。でも凡夫のわたしにはできない。だから悲しいことは、ほんとうに悲しいんですもの。不快なことは、ほんとうに不快なんですもの。人に裏切られたことは悲しく、腹立たしくそして情けないのだから。
いっそ蝶になりたい!
楽になりたい!
いや消えてしまいたい!
きっと蝶ならなわたしはこんな心境にならず、ただただ花園で蜜を求めて次から次に楽しくひらひら飛び、舞っていればいいのだから。蝶がうらやましい!
残念なことにわたしには、それを許してもらえません。ただただ心を磨き、耐えるしか救いはないのです。所詮はひとり。生まれた時も死ぬ時もひとり。
これからもずっとイバラの道を十字架を背負って生きていくしかないないようです。頑張るしかありません、
Comments