• 木津宗詮

雷 不作一喝用 上拄天下拄地 三猿(印) 雷 一喝の用を作さず 上は天を拄(ささ)え、下は地を   拄(ささ)える



 伊木三猿斎の雷の自画賛です。この賛の「不作一喝用」の「喝」は、いわゆる 「臨済の喝、徳山の棒」、臨済の大喝と徳山がの痛棒とともに、ともに雲水教導の方法として用いたものとして古来有名な「喝」です。

禅語の解説書によると、『臨済録』に「臨済の四喝」といって四種類の喝があると記されています。一つめは迷いも悟りも、理屈も道理も、妄想や分別を一刀両断に断ち切る喝。二つめは天地一枚、大悟した境地から吐き出される全くすばらしい、だれ一人寄り付くことのできないまったく隙のない喝。三つめは相手の足下を見抜くため、すなわち相手の素質や力量を試す喝。そして四つめは、すべての造作やはかさらいを一切加えない喝、喝しても喝しない喝だそうです。そしてこの四つめの喝は、他の三つの喝の根源であり、すべてを含んでいる喝なのだそうです。

 三猿斎の賛の「喝」は、「臨済の四喝」の四つめの「喝」のことです。実際この句は『臨済録』の引用です。この賛は「雷」のあとの二行の句を別のことばで説明しています。三猿斎は雷の音も稲光をすべての造作・はからいを全く加えることもなく、その形跡すらない「喝」に見立てています。そしてその「雷」からは凡夫には推し量ることのできないものが生まれる。それは上は天をを拄(ささ)え、地をを拄(ささ)える、そんなものすごい働きをするのが「雷」であるとしているようです。そこでこの「雷」は絶対無比なものであり、また「雷」を「喝」に置き換えることもできるのではないかと考えます。

 禅語の真の意味は本当にその境地にいたった人以外には、窺い知ることができません。理屈では真の理解・会得をすることを許さない。自身が僧堂で実参参究して身につけることより方法が無いのです。門外漢のわたしは極力禅語を、稽古や茶会に使うことをためらうのです。字面やその経緯は説明できても、真の意味の説明ができないからです。禅語の軸ほど恐くて、厄介なものはありません!  昨夜、突然雷鳴と共に雨が降り出しました。昼間暑かっただけに、気温は低いようですが、とても蒸し蒸しする夜になりました。雷鳴は昨夜闇を轟かせたものです。



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