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心の目

天保6年(1835)1月二22日に武者小路千家9代好々斎が41歳で亡くなります。まさに業半ばの死でした。あとには義父一啜斎と義母智法、妻の宗栄が残され、好々斎と宗栄の間には宗普(文政3年9月16日歿)という女子がいたようですが、夭折しており、好々斎が亡くなった時には実子がいませんでした。好々斎は家督継承後、高松松平家の茶堂として仕え、また4代一翁、7代直斎の年忌を無事に営み、大徳寺の大綱宗彦をはじめ大徳寺の和尚方や公家の梅溪通修、小笠原家茶道古流の11代家元古市自得斎等、階層の異なる人たちとも交流し、多くの道具を残すなど、武者小路千家の9代家元として充実した年月を送っていました。さらに実兄である裏千家10代認得斎の願いを受け継ぎ、認得斎亡き後の同家11代玄々斎をも支えていたようです。

好々斎の死は急なことであったようで、武者小路千家では表千家10代吸江斎の弟儀三郎を養子として急遽迎えます。のちの以心斎です。表向き高松藩には好々斎が生存している体をとり、この縁組は単に養子縁組だけではなく、以心斎に当主の座を譲る形をとっています。実際は8歳であったようですが、藩には年齢を11歳とかさ上げして届け出しています。おそらく家督相続を願い出るには幼すぎた以心斎の年齢を考慮しての計らいであったと考えられます。この時の以心斎はまだ童子であり茶道修行が不十分であるということが高松侯の耳に入り、紀州侯の家来であり、一啜斎からただ一人真台子の相伝を受けていた木津家初代松斎に高松侯より家業の後見が依頼されました。ところが松斎は大坂在住のため、京都とは隔たっていて家元の業務も行き届かないので、以心斎が両3年ほど大坂に逗留して諸事執り行い、十分に修行をすることとなりました。ついては高松の大坂屋敷内の長屋が貸与されることが担当の奉行より指示があったようです。

このように好々斎の急死で窮地に陥った武者小路千家でしたが、無事に以心斎を後継者として迎えることができました。幼少の以心斎は茶の湯の修行を積み、その10代家元としての活躍は武者小路千家をあげて期待されていました。ところが、天保8年5月に以心斎は痘瘡に罹り、その後遺症で失明するという不幸に見舞われたのです。以心斎入家2年後のことで、武者小路千家に新たな困難が訪れたのでした。

痘瘡は天然痘ウイルスを病原体とする感染症で、感染すると高熱を発し、悪寒、頭痛、腰痛を伴い、全身に水泡の中に膿みがたまる発疹ができる症状で知られます。現在は一部の研究機関を除き、自然界では根絶したと宣言されていますが、当時は不治の病と恐れられ、非常に強い感染力で、幼少の子どもたちが多く罹患し、死亡率も高かったようです。仮に一命を取り留めてもあばたが残り、ひどい場合は失明したり、四肢の末端に障害を帯びたりするなどの後遺症が出ました。伊達政宗が幼少時に右目を失明したのも、痘瘡が原因と伝えられます。

こうしたことから以心斎の書はまことに少なく、その墨跡や箱書は松斎が手をとって認められています。以心斎を代表する書として、家元蔵になる大綱との合筆になる円相が挙げられます。以心斎が一気呵成に力強い一円を描き、


千宗安雅士若年因痘 失明雖然心甚正明有 人乞画為作圓相尤宜 余和歌阿里 

何事も心からなり目を捨て筆にまかすも姿ただしき 


と大綱が着賛しています。円相は、『茶席の禅語大辞典』に、


文字や言語で表現し尽くせない絶対的で円満なる真理や悟りそのものを敢えて表現する方法の一つ。(中略)見る人の境涯やそのときの心境の在り方によって、円相に何を見るか何を表現するかは様々であり、どのような賛語が付されるかにより微妙に意味が変わってくる


とあります。大綱の和歌は目が不自由であってもすべてが心の成すことであるから、筆に任せて描くこともすべて正しい姿であるという意味で、以心斎の円相が文字や言語を超越した円満な心により描かれているとの意を詠んでいいます。なお、眼病平癒の霊験で著名な島根県出雲市の一畑薬師(一畑寺)にも、代参の者を通じ奉納した軸が残されています。

以心斎の「宝尽し絵」です。目が不自由だった以心斎の数少ない作品の一つです。右上に力強く描かれているのは打出の小槌、その下左は宝珠、中央のものは不明です。左に大きく「守 書」と署名し、紙面の幅いっぱいに花押が認められています。

目の不自由な方から聞いたことですが、失明するまでに見た物の形や色については生涯記憶に残るそうです。この打出の小槌と宝珠も失明するまでの10年間目にしたものを念頭に置いて心の目で描いたのなのです。

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