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小室翠雲

 木津家3代聿斎宗泉と南画家の小室翠雲の合作です。聿斎の花押からは40代の作のようです。翠雲は「添筍翠雲(印」」と書き添えていて、はじめに聿斎が中央に竹の絵を描き、あとで翠雲が筍を書き添えたことがわかります。



 小室翠雲は小室桂邨を父として画家の家系に生まれました。名は貞次郎、翠雲と号しました。

翠雲は谷文晁派の田崎早雲に師事して南画を描きます。はじめ群馬県館林市で南画の修業を続け、早雲の死後、上京して南宗画会や日本美術協会に作品を出品して認められます。

 第2回の文展から毎年作品が受賞され、第9回からは審査員となり、田近竹邨・矢野橋村らと日本南画院を創立して南画の大御所として活躍しました。 そして帝展の審査員にまで上り詰めます。翠雲は当時の日本最高峰の画家展覧会において自身も絵を描き、また、画家を評価する立場となります。帝国芸術院会員・帝室技芸員となりました。

 作風は非常に精密な描写でありながら豪壮な印象を与えるのが特徴です。昭和20年(1945)に70歳でなく亡くなりました。代表的な作品は宮内庁三の丸尚蔵館、群馬県立近代美術館、永平寺や群馬県館林市の寺社で見ることもできます。

 こんなすごい画家との合作が残されているのはわが家にとっては本当に名誉なことです。さすが翠雲は南画界の大御所と呼ばれるだけあって見事な筍です。聿斎の竹もよく描けていると思います。それにしても聿斎がどのような縁から翠雲と合作をしたのかは今となっては全く不明です。

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