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本末の歌

 本末とは本と末。上と下。また、先とあと。物事の根本と枝葉。大切なこととそうでないこと。ほんまつのことです。

 建築用いる木材も密度が高い方を本(元口)、反対に密度がそうでない方を末(末口)といい、柱を据え付ける時は、本を下にして木が生えているのと同じ状態に立てます。屋根の垂木も軒先に元口がくるようにそろえます。木が伸びる方向は、いつも天を仰いでいるのです。柱を建てる際、末口と元口を逆さにすることを「逆木(さかぎ)」といいます。逆木は、家に不幸をもたらすとされています。これは乾燥や耐久性を考えてのことです。

 また、炭点前の時の炭斗や水屋で用いる箱炭斗に仕組む炭も、手前を本、向こうを末にします。

本末は本来木が生えている姿、自然なあり方として重視しています。

 本居宣長の「本末の歌」という長歌があります。本と末をきちんと区別することを主張した歌です。宣長は江戸時代の知識人が中国のことを学ぶうちに、本末が転倒してしまい中国が中心になって日本のことは二の次になってしまったとしています。「漢意(からごころ)」を絶対視して「大和心(やまとごころ)」を忘れていることに宣長は警鐘を鳴らしています。そして本である大和心をまず基礎とし、末である漢心をその上にしなければならないということです。

 宣長はこの考えを発展させ、本は必要なこと、末は不必要なこと。どのようなことでも大切なことだけを突き詰めていく。本と末の二つを正しく判断できれば、おおよそ物事は本末転倒することなくうまくいくとしました。目的を明確にし、その中でこれは大切、これはそれほど重要ではないと序列をつけなければ正しい判断ができないと主張しています。

実際、日本人には自国の文化を軽んじる風があります。英語は堪能であるのに日本語が稚拙であるとか、日本の歴史や文化を十分に知らない若者が増えていると思います。今から10年以上前に、ある神社の宮司さんが、日本がアメリカと戦争をしたことを知らない、平安時代の前が江戸時代だったと思ってる神社の子息が神職養成所に入学してきたと驚いていました。またある方から海外で英語は堪能だけれど日本の歴史や伝統文化についてさっぱりで、その国の人があきれていたという話をうかがいました。その子どもにも問題がありますが、日本史が選択科目になっているなど学校教育や家庭にも多大な原因があると思います。

 まず日本語をきちんと使うことができ、歴史や伝統文化を知ることが基本ではないでしょうか。決してそれが優れているから学べというのではなく、自国のことだからそれが根幹になければならないというだけです。グローバルや国際化はとても大切なことです。間違いなく現代社会を生きていくためには最も重要なことです。ただし、判断基準や思考形式の大元がしっかりしていなければ偏ったものになる危険性があると私は思います。そして宣長のこの考えはすべての職業、日常生活にも当てはまることだと思います。


本末の歌

河上の丹生のそま山 斧とりて眞木の大木を 中のまを宮木にきりて 山つみにのこしてまつる 本末のことわりしるく 赤根さし豐かさのぼる 日の本のこれの山跡は 掛まくもあやにかしこき 天照すその日の神の あれましゝ本の御國と その御子のしらす御國と 其の神の御かげかゞふる 天地のそこひのうらに 天傳ふくたちの末に むらぎものむらがりつゞき 玉だれのをくに大國 もゝ八十と國はおほけど 日の末のその國國は 末國と末のしわざに もちどりのかゞらひなづみ 言きよくいひはいへども 刺竹の君をなみして やつこらい君にかはりみ 君らはも奴になりみ よし野川早き時より 國の本道の本はし 水鳥のたゝずとほらず かりごものみだれてあるを 本國は本の神世の 御よざしの本のまにゝゝ いそのかみふる野の道の 本がしは本かたくして 望月のかけずうごかず 久方の天つ日嗣は 神ながらいやつきゝゝに むくさかに傳はりまして 大君は神にしませば 大御座たかき御かげを ものゝふの八十伴緒も 天の下四方の御民も ところつらいやとこしへに かしこみてあふぎまつろひ たまきはるよゝをしふれば 人國の教よろしと さかしらをならはひ學ぶ 人はしも多くあれども たまちはふ神のめぐみと しかすがに本をわすれず 末々のいさゝけわざも いにしへのあとをたづぬる 本國のてぶりうるはし こゝをしもあやにたふとみ 言擧せぬ國とはいへど ことあげしてたゝへまつらく あし原の水穗の國は 百八十のおや國 もゝやその國の本國 うまし國ほ國眞秀國 うらやすの國


  かへしうた 世の人の 本の本末 思はずて 末のもとすゑ いふがおろかさ

平宣長







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