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毘沙門天

 七福神の一人毘沙門天は広目天(こうもくてん)、持国天(じこくてん)、増長天(ぞうちょうてん)と共に仏法を守護する武神です。もともとはインドのヒンドゥー教の財宝神でしたが、後に仏教に取り入れられ、仏の住む須弥山(しゅみせん)の北方を守護する武神となりました。日本では七人の財宝神である「七福神」の一神に加えられています。毘沙門天を祀る寺として鞍馬寺や信貴山朝護孫寺、山科の毘沙門堂等が有名です。  毘沙門天は寅の年の寅の日の寅の刻に出現したとされ「虎」がお使い(眷属)とされています。またはムカデ(百足)もお使いとされています。ムカデは「百足」と漢字で書かれるように非常にたくさんの足があります。ところがムカデのたくさんの足は、まさに一糸乱れず歩調や方向が全く同じで進みます。そこでどのような困難な問題に直面しても心を一つにして対処するようにとの教えがあるそうです。戦国大名たちは戦で兵たちが一糸乱れず果敢に素早く前進し、決して退かないムカデを尊び、また毘沙門天を信仰し、それにあやかるという意味で甲冑や旗指物にムカデや毘沙門天を用いる例がみられます。上杉謙信は毘沙門天を特に篤く信仰していたことは有名です。旗指物が毘沙門天の「毘」の一字で、自らを毘沙門天の化身であると信じていたそうです。また、武田信玄はムカデの絵を旗指物としていました。また、福神ということで多くの足からおあし(銭)がたくさんついて金運をよぶとか「客足。出足」が増えて商売繁盛ということで商人の信仰も集めました。


 大徳寺元管長で利休居士三百五十年忌の三千家主催になる法要の導師を勤めた太田晦巌(大梅窟)が刀の白鞘に書いた「毘沙門天」です。 毘沙門天   大徳晦巌禅師之書也中身ハ濠北出征ニ際し帯行す                昭和甲申之春赳誌(花押) この刀も武神である毘沙門天にあやかり「武運長久」を祈念して鞘に太田晦巌が揮毫したのです。小いさく書かれた文字はこの刀を所持していた赳なる人物が、濠北(北オーストラリア)に出征したときに帯行した旨を記しています。ただし刀身は現在は竹光に代わっています。  毘沙門天とムカデの小話に、ある日、毘沙門天が七福神仲間の弁天さんに手紙を書き、それをムカデに届けさせました。夕方になってもムカデが玄関で手紙を持ったままごそごそしているので、毘沙門天が、 「これムカデ。おまえまだ弁天さんの所にいってないんかいな。何してるねん⁉︎」 そこでムカデは、 「すんません。わらじはいとりまんねん!」

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