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鍛冶對馬

安田是誰(ぜすい)の事跡ついては多く伝わっていません。元禄15年(1702)、京都に生まれ、禁裏御用の鍛治師で、武者小路千家6代真伯の門人でした。『京都御役所向大概覺書』の享保元年申改の「諸役御免除之分」の中に、

 貳軒役       西堀川通中立売上ル町

 一、鍛冶御用           鍛冶對馬

とあり、現在の堀川通中立売上ル「堀川下之町」に居住していました。堀川下之町は現在の堀川通の中立売通と一条通の間、ちょうど堀川通の真上にあたります。町名だけが残っていて民家の全くない町です。これは昭和20年(1945)、空襲による火災の延焼を防ぐため、建物密集地の建物を取り壊し、道幅を広くし、被害を最小限に食い止めるために行われた建物疎開の対象になったため、一丁町が地上から消えてしまったためです。堀川下之町は慶長(1596〜614)前後、「鍛冶屋町」といい、のちに現在の町名となりました。寛永14年(1637)の『洛中絵図』には「かちや町」、宝暦12年(1762)の『京町鑑』には「堀川下之町」とあり、是誰の頃は堀川下之町であったようです。『京雀』には「この町には釘かすがいなどつくる鍛冶おほし」とあり、また新刀鍛冶の祖と呼ばれる堀川国広の高弟である大隅掾藤原正弘が住み、多くの門弟を育てた地でありました(『京都市町名変遷史3聚楽周辺(上京区)』。是誰の先祖も正弘の門下で、その流れの鍛治師であったと考えられます。ちなみに、刀剣史では慶長年間を境に古刀、新刀と区別されています。

江戸時代の鍛治師は、基本的に鍛冶頭の格式である「日本鍛冶惣匠」を名乗り、禁裏・幕府御用鍛冶三品伊賀守金道(みしないがのかかねみち)の統制下にありました。初代三品金道は美濃国(岐阜県)関の出身の刀鍛冶で、藤原を姓とし、西洞院夷川に住まいし、伊賀守を受領(ずりょう・本来、国司を構成していた守・介・掾・目の四等官が、中世には実を伴わない官名として地下人の名誉称号となり、職人や芸能人にも与えられるようになる)し禁裏の御用を勤めました。初代は名匠でもありましたが、政治的手腕にもすぐれ、関ヶ原の合戦直前に、徳川家康により京都や諸国の刀鍛冶を支配下に入れるという条件で、太刀を百日のうちに千振りの発注を受け、期限通りに納品しました。そのことを大層喜んだ家康により、合戦後、鍛冶頭の地位を与えられました。大阪夏の陣ののちには、家康の取次で、朝廷より「永代日本鍛冶惣匠」の称号の勅許を受けるとともに十六葉の菊花紋を許され、幕府より三人扶持を与えられました。それ以後、全国の刀鍛冶を支配下に置いた三品家は、「守・介・掾・目」を受領する際の一切の手続きを行い、他の刀鍛冶たちは三品家の門人となり、その弟子も「遠弟子」として入門させられ、毎年、名義料や盆暮れの祝儀を納めなる等の義務を負わされました。門下の刀鍛冶はその代償として、三品家より系図書きや鍛冶名乗り、禁裏御用の資格を与えられました。そのことにより門人は営業税免除や関所自由通行の特権を得ることができました。その代わりに御所の復興工事が始まると何日かの奉仕の義務があり、また遠方の弟子で上洛できないものにはそのための分担金が課せられました。このように三品家は幕末まで十一代にわたり権勢を誇っています(福永酔剣著『刀鍛冶の生活』)。ちなみに、三品家の当主は、初代から歴代「伊賀守金道」と名乗っています。

是誰の先祖も、鍛冶頭日本鍛冶惣匠の三品家の門人でした。是誰も禁裏御用鍛冶だったことから四代伊賀守金道の弟子の一人であり、4代から6代までの伊賀守金道の3代の当主に仕えたと思われます。そのことから『京都御役所向大概覺書』にあるように、「諸役御免除」の特権を得たのです。延享3年(1746)に三品家が体面を維持するために全国の門人から金子を取り立てた時、薩摩の中村清方に宛てた書状に、「三品伊賀守弟子 対馬守金永」とあります(福永酔剣著『刀鍛冶の生活』)。基本的に同時代に、しかも同じ地で複数の受領名はあり得ないので、この「対馬守金永」とは是誰のことであると考えられます。これまで是誰の受領名が、単に対馬とされ、守か介か掾かその等級が不明でしたが、「対馬守」であったことが判ります。また「金永」という名も初めて判明しました。ちなみに、「是誰」は号であったと考えられます。このような家政に関する無心状を、伊賀守金道に代り発行していることから、是誰は単に鍛治師であるばかりではなく、三品家の執事のような立場にいたと考えられます。そして三品家の当主名である金道の「金」の一字を許されていたと思わ、禁裏御用鍛治のなかでも、相当三品家の重要な地位に位置していた人だと考えられます。

なお、茶人の自作になる道具は、茶碗や茶杓・花入等が一般的ですが、是誰は禁裏御用の鍛冶職であったことから本職の冶金の技術で造った紹鷗好みの風炉火箸の写しが伝えられています。古今東西、茶人の手になる火箸は、本作をおいて類例が無いと思われます。本歌は慈照院の什物で、宗旦の署名と花押が認められていたようです。手で握るところは扁平で、荒々しく槌目を大胆に残したまことにわびた火箸です。箱書きには、

せうをふ好ふろの火是誰(花押)

是誰作火箸含旭桂洲老人所持 西□耕月(花押)

とあります。なお、耕月という人物が、桂洲老人が所持していた旨を認めています。耕月については不明ですが、桂洲老人とは天龍寺221世で、含旭亭(がんきょくてい)、来鳳軒(らいほうけん)、衣宝(らいほうけん)、あるいは衣笠道人と号した桂洲道倫(けしゅうどうじん)のことです。桂洲は京都の人で、幼年に延慶庵(現地蔵院・京都市西京区山田)の雲崖(うんがい)に投じて出家し、丹波法常寺(亀岡市)の大道文可(だいどうぶんか)に久しく参禅し、のち天龍寺に戻って延慶庵に嗣住します。東福寺や相国寺、鎌倉円覚寺の結制(雲水が一カ所に集まり修行する安居を結成すること)に請ぜられ、行化に努め、晩年は延慶庵の傍らに枯木堂(こぼくどう)を構え、雲衲を接化しました。寛政6年(1794)に示寂、世寿81でした。博学文辞に富み、書画に巧で、江戸時代の京都等の市井の各方面の文化人を集成した書である『平安人物志』の明和5年(1768)版・安永4(1775)年版・天明2年(1782)版の学者の項に「釋道倫・号桂洲・嵯峨延慶庵・俗称桂洲」とあり、当時、学者として大変評価が高かったことが判ります。そして桂洲は安田是誰の参禅の師でもありました。この火箸は是誰が造り、桂洲に贈られたものであったと思われます。その後、この火箸は藤井全助という人の手に渡り、添状には、全助が多分父に当たると思われる正圓の遺物として平瀬露香に贈られた由が記されています。また竹筒の栓が紛失したので、明治5年に露香が補っています。

筒に書かれている慈照院は、はじめ「大徳院」と称し、足利義政が亡くなったのち、香華所となり、義政の法号から「慈照院」と改められました。また七世昕叔顕啅(きんしゅうけんたく)は桂宮初代智仁親王、二代智忠親王と親交を深め、桂宮家の菩提所となっています。そして智忠親王より、桂離宮内に建てられている古書院と建築方法、建築材が同一の草庵風書院「棲碧軒(せいへきけん)」が下賜されています。昕叔は相国寺九十四世で日野輝資の子で、後水尾上皇の和歌や茶・花の会に陪侍し、上皇の落飾に際しては戒師を勤めています。そして昕叔は織田有楽斎や少庵、宗旦等と親交があり、宗旦に依頼して茶室「頤神室・(いしんしつ)」を建てたと伝えられています。頤神室は四畳半下座床の席で、躙口はなく、土庇のある南側に障子二枚引の貴人口を設け、席内に布袋像を安置した丸窓の龕(がん)が付属した席です。この像の首は機に応じて利休の首とすげ替えられるようになっており、当時は世間体をはばかり公然と利休を祀れなかったため、こうした工夫がなされたと伝えられています。また頤神室は「宗旦狐」の伝説で知られた茶室で、相国寺の藪に棲む古狐が宗旦に化けてみごとな点前をしたという話しが伝えられています。この狐は茶の湯だけでなく雲水に化けて坐禅を組み、托鉢をしたり、門前の家で碁を打ったり、倒産寸前の豆腐屋の資金難を救ったといった等の伝説の狐です。今日、宗旦狐を祀る宗旦稲荷が相国寺法堂の東南にあります。なお頤神室は建築手法から宗旦まで遡ることできず、もとの宗旦好みの茶室が腐朽し、屋根や天井、窓、貴人口、龕、庭が明治になってから全部改作されたのではないかと考えられます(岡田孝男『京の茶室』)。慈照院14世介川中厚(かいせんちゅうこう)が、明治19年(1886)に一指斎に入門していることから。案外一指斎がこの改作にたずさわっていたのではないでしょうか。このように慈照院は流儀とも深い関係にあった寺であります。

写真は是誰の大福茶碗です。


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