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相撲

大相撲初場所が1月14日から両国国技館で行われています。1月28日が千秋楽です。

相撲とはまわし一枚の姿で、何の武器も持たず素手で土俵上の力士が相手を倒し合いをし、土俵外に出し合って勝敗を競うわが国の伝統的な格闘技である「国技」です。相撲の語源は「争い」「抵抗」などを意味する動詞「すまう」の終止・連体形の名詞化から「すまふ」に当てはめ、やがて「すまひ」の名詞に変化し、のちに音便化していまの「すもう」になったそうです。

『有職故実大辞典』と『日本大百科全書』等によると、古くは、古墳時代の埴輪・須恵器にもその様子が描かれ、『古事記』に葦原中国(とよあしはらのなかつくに)平定の際、建御雷神(たけみかづちのかみ)が出雲の建御名方神(たけみなかたのかみ)と力比べによって解決したことが記され、これが相撲の起源とされています。

また、神ではなく人間同士の戦いで最古のものとして『日本書紀』に、垂仁天皇の時に野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の力比べの記述があります。これは蹴り技の応酬で、最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させています。このことから現代の相撲とはルールも意識も異なるもので、武芸・武術であったことがわかります。

もともと相撲は神事相撲として行われていました。五穀豊穰の吉凶を神に占う農耕儀礼として行われ、単に力比べのスポーツや娯楽ではなく、神々の思召し(神意)をうかがう神事として普及し発展してきたものです。神亀3年(726)に全国に干ばつが起き農民が凶作に苦しんだため、聖武天皇は伊勢の神宮ほか二十一社に勅使を派遣して神の加護を祈ったところ、翌年は全国的に豊作となり、そのお礼として各社の神前で相撲をとらせて奉納しました。これが公式の神事相撲の始まりとされています。

奈良時代には抜出司(ぬきでのつかさ)という、相撲人(すまいびと・力士)を選抜する官職が設置され、聖武天皇の時に野見宿禰と当麻蹶速が闘ったのが7月7日であるところから七夕の余興に相撲を観覧し、これがのちに恒例となりました。平安時代に入ると天覧相撲はますます盛大になり、弘仁年間には、宮中儀式の相撲節会(すまいのせちえ)という独立した催しに発展します。そして相撲節会は射礼(じゃらい)・騎射(うまゆみ)とならぶ宮中の重要な儀式である三度節(さんどせち)の一つに定められ、国々から相撲人を召し集め、相撲をとらせる大規模な国家的年占いに発展しました。時期が秋の収穫前であったことから五穀豊穣の祈願と作柄を占う、神事の意味もその基底にありました。天皇出御で観覧する相撲節会は、相撲に付随した舞楽をさせ、貴族と宴を開く儀式で、「召合(めしあわせ)」といい豪華絢爛たる王朝絵巻が繰り広げられました。なお、土俵と行司役がなく、すべて官吏によって運営されました。相撲人は左・右の近衛府から1人ずつ出場し、はじめ二十番でしたがのちに十七番の取組があり、勝数を合計して多いほうを勝ちとしました。相撲人は陰部を覆う下ばかま・ふんどしである犢鼻褌(とうさぎ)の上に狩衣を着け、烏帽子を被り、左方は葵、右方は瓠の造花をつけ、ともに剣衣を取り円座に置き、勝負が決まったら再び剣衣を取り、勝方の造花と剣衣は次の番の相撲人に渡し着けるのを例としたそうです。勝方は乱舞を行い、舞楽があり天皇は還御となりました。召合は1日だけの催しでしたが、節会に関係する者はおよそ三百数十人、美々しく行列を練り、紫宸殿の前庭に参入しました。なお、天皇が幼少の時には子供同士が対戦する童相撲などの天覧相撲があったそうです。規模の盛衰や天災地変のため中止することもありましたが、約300年の間、三度節の一つとして毎年のように催されました。そして朝廷が衰微した高倉天皇の承安4年(1174)を最後に廃絶してしまいました。

鎌倉時代以降、武家では相撲は戦場における実戦用の組み打ちに必要な武術として、平時はもとより陣中においても鍛練されました。なかでも織田信長は、毎年多数の力士たちを集めて安土城などで上覧相撲を開いたことが『信長公記』に記されています。

室町後期になると、京都伏見に半職業的の土地相撲の集団が発生し戦乱の収まった地方を巡業して歩くようになります。これは後世における勧進相撲の原型になります。同時に、民衆の相撲熱も盛になり、辻相撲、草相撲などが行われるようになります。勧進相撲は神社仏閣の建立・修繕、橋の架け替えなどの資金に寄付を勧めることで神社仏閣のの境内で行われました。

江戸時代には大名抱え力士が現れ、力士は師匠の相撲部屋に所属して訓練されていきました。この部屋を統率したのが江戸相撲会所で、制度組織を整備し、年寄(親方)たちによる運営を行い、名実ともに全国の組織を中央化して全盛期を迎えます。

松平定信の「寛政の改革」では尚武気風の奨励が、いっそう民衆の相撲熱を高めました。江戸城で将軍家斉の上覧相撲が初めて催され、谷風、小野川、雷電らの力士が活躍して相撲史上空前の繁栄をみるのもこのごろです。

江戸相撲は年2回、1月から4月までの春場所、10月か11月の冬場所が市中の神社境内で催され、その間は4、5組に分かれて巡業し、夏には京、大坂で合併大相撲を興行されました。大坂、京都にもそれぞれ相撲会所があり、毎年夏ごろに江戸相撲を迎えて番付を編成し、京坂力士は江戸幕内力士の下位に名を連ね、実力のある者は江戸相撲に加入して名をあげることを競いました。このように江戸中期から発達した勧進相撲は、江戸後期の100年間に職業相撲として完備した組織のもとに隆盛を続け、今日の大相撲に受け継がれています。

ぬ写真は冷泉為恭の「相撲節会図」です。相撲人が犢鼻褌の上に狩衣を着け、烏帽子を被り、今か今かと出番待つ様を描いています。


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