11月7日が「立冬」で、「二十四節気」の第19番目で秋が極まり冬の気配が立ち始める日とされています。「立冬」は暦の上での四季の区切りの日の一つです。ちなみに四季の区切りの日を「四立(しりゅう)」といい、「立冬」の他に、「立春」、「立夏」、「立秋」があります。また「四立」のほかに「冬至」・「夏至」・「春分」・「秋分」の「二至二分(にしにぶん)」があり、これらを合わせて「八節(はっせつ)」と呼び、一年のもっとも重要な節目の日としています。
「冬至」は12月22日となります。この日は天文学的に太陽の南中高度が一番低くなり、一日の昼の長さも最短になる節目といえます。このように「二至二分」には天文学的に太陽の高さの具体的な現象があるのに対して、「四立」にはそうした現象が特にありません。「二至二分」の「至」は行き着くところ、到達点を意味し、「分」は二分する所という意味を持ちます。いずれも春夏秋冬という四季それぞれの盛りである中点を意味しています。四季それぞれの期間を定めるのに明確な線引きはできません。天文学的にあるはっきりした日付の決まる「二至二分」を四季それぞれの中点とし、その中点と中点の間の45日前後を境界線とし、その日を季節の始まりと終わりにしました。冬至を中心として立冬から立春までが冬、春分を中心として立春から立夏までが春、夏至を中心として立夏から立秋までが夏、秋分を中心として立秋から立冬までが秋となります。「二十四節気」は太陽の位置・昼夜の長さにもとづいた季節の物差しで、旧暦は「太陰太陽暦」といって、太陰暦の要素と太陽暦の要素にもとづいて作られています。太陰暦の要素が月の満ち欠け(朔望)、太陽暦の要素が二十四節気で、冬至の日の直前の新月(朔)の日が11月1日と決まっています。そして旧暦では10月・11月・12月を冬としています。旧暦で「冬至」の日は11月1日から11月30日のあいだで毎年異なります。「立冬」も11月1日ではなくずれるのです。単に季節の始まりである「四立」と旧暦に1日はずれることになるのです。ちなみに今年は11月8日が旧暦10月1日で、その前日の7日が「立冬」で1日のずれでした。来年の2月4日が旧暦の12月30日となりなりちょうど「立春」となります。立春が元日(朔旦立春)となるのは約30年に1度だそうで、近年は1954年・1992年で、次は2038年と予測されるとのことです。このように「四立」は人間が観念的にとらえた季節の区切りの日で実際の季節とは適合しません。あくまで人間が季節とはこうあるべきと考えた観念的な季節の変わり目であるといえます。ですから「立冬」といっても実際はまだ秋らしい気配で紅葉の盛りはこれからという時分です。ちなみに森永製菓が「立冬」を「ココアの日」として制定しているとのことです。例年この時期からココアの需要、家庭に登場する機会が増えることからこの日が選ばれたそうです。
江戸時代前期から中期の茶人で、藤村庸軒の次男で、大坂で茶商関東屋を営み、庸軒流の茶道を継承した藤村正員の漢詩「冬日」です。
冬日
愛日愛来暢四支 霜辛雪苦已平夷
傍人醉後憑吾説 今世恨無對趙衰 正員
日を愛し来たりて、四支(しし)を暢(の)ぶるを愛す
霜辛雪苦(そうしんせっく)已(すで)に平夷(へいい)たり
人に傍(そ)ひて醉うのち吾に憑(よ)って説かん
今世、趙衰(ちょうあい)に対(む)かはざるを恨む
日を愛して、日にあたって四肢を伸ばすことを好む。霜のような辛さや雪のような苦しみは既に癒えました。人と共に醉った後に、私に言わせる。今の時代に趙衰がいないことを残念に思うという意味です。
『春秋左氏傳』文公七年に、
酆舒(ほうじょ)賈季(かき)に問うて曰く、趙衰(ちょうあい)、趙盾(ちょうとん)、孰(いづ)れか賢(まさ)れる。対(こた)えて曰く、趙衰は、冬日の日なり。趙盾は、夏日の日なり。
鄷舒が賈季に問うた。「父の趙衰と子の趙盾とはどちらが優れた人物か」と。賈季が答えた。「趙衰は冬の太陽である。趙盾は夏の太陽である。
この一文は、冬の太陽は温かくて愛おしく有り難いもので、温和で惠み深い人のたとえとなり、夏の太陽は人が恐れはばかるものできびしく、恐ろしい人物に例えていて、正員のこの詩はこれを踏まえています。
12月に入り4日たちましたが、今年の冬は異様に暖かい日が続いています。いずれ例年のような寒冷の日々が訪れるのは間違いありません。暖かいのはありがたいことですが、そのしっぺ返しがとても不安です。
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