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徐煕の鷺絵

同じく卜翠会総会、並びに研修会の床に掛けた土佐光孚(みつざね)による徐煕(じよき)の鷺絵写しです。今回の研修会は北野天満宮と豊臣秀吉が催した北野大茶湯がテーマでした。北野大茶湯で奈良の松屋が石鳥居脇の茶席で徐煕の鷺絵と松屋肩衝、存星(ぞんせい)の長盆の「松屋三名物」を持ち出したことにちなみ掛けました。


天下の神品とされていた徐熙筆の鷺の唐絵は、細川三斎が最高の礼を尽くして長袴を着用して拝見したと伝えられています。徳川二代秀忠、三代家光も上洛の際に請うて拝見し、ついには霊元天皇の上覧にもあずかった名物中の名物です。

文化5年(1808)松平不昧が大坂伏見町の谷松屋戸田商店を訪れた際に、4代戸田休芳がこの鷺絵を借用して書院の床に掛けて薄茶が出されています。戸田休芳はかつて上梓した『目利き–谷松屋八代戸田露吟覚書』の戸田露吟の曽祖父で、初代松斎宗詮の門人です。その後、徐熙の鷺絵と松屋肩衝、存星の長盆の松屋累代の重宝「松屋三名物」は松屋から流失してしまい、伏見町の道勝こと道具屋伊藤勝兵衛が薩摩の島津家に一万両で売りました。現在、徐熙の鷺絵と存星の長盆は行方がわからなくなっています。茶入の松屋肩衝は根津美術館の所蔵になっています。

松屋は奈良転害郷に住む東大寺の鎮守手向山八幡宮の神大塗師から身を起こして次第に富を築き、久行の時、珠光の弟子古市播磨に師事し、代々奈良の有力な数奇者を排出した家です。久政・久好・久重の三代の茶会記録が「松屋会記」です。

作者の徐煕は中国,五代,南唐の画家で、江寧 (江蘇省南京) の名族の出身とされています。蜀の黄筌 (こうせん) とともに花鳥画の二大流派の徐氏体 (黄・徐二体 ) を創始。黄筌が華麗で写実的表現を特色としたのに対し,徐煕の画風は水墨を主体として淡彩を加え,粗放な筆致のうちに写意的表現を特色とし、のちの水墨花鳥画に多大な影響を及ぼしたそうです。

筒井紘一氏の『山上宗二記を読む』によりますと、足利義政が所持していたのを珠光が拝領し、一文字風帯なしのわび表具に仕かえ、珠光から古市播磨にわたり、松屋源三郎に伝来しました。そしてこの軸の口伝を利休は紹鷗から伝えられていたのを、松屋久政に伝授しています。

それは全体が沢で、描き残した芦、珠光が巻緒の金具を赤銅にし、一文字を抜いて表具し直した口伝、軸を包む絹地を紫に染める口伝、讃が無く軸先が唐物の筆で、金襴に太布を継ぐ口伝を伝授しました。そしてこの軸を数奇の極意として織部に伝えられました。『茶道四祖伝』の「古織公伝書」に、

利休ヘ数寄之極意ハト尋候得バ、休云南京ノ鷺ノ絵を参得するならバ天下ノ数寄合点行べし。左ナクバ未参得行と心得よ、早々下り申せとの儀ニ付、与風(ふと)御下候由左助殿御物語候なり

とあり、古田織部と瀬田掃部は久政を訪ねています。また、細川三斎のことばとして「利休表具と云事も鷺の絵ヨリヲコリタル事成ゾ」とあります。

この鷺絵写しの作者土佐光孚(みつざね)は幕末安永9(1780)に京都に生まれ。鶴皐と号しています。土佐家の分家土佐光貞(みつさだ)の長男(一説に御園玄蕃頭(みその-げんばのかみ)の3男)で、父の跡をついで宮中の絵画や意匠を考案・製作する工房とそこに所属する絵師の長である絵所預(えどころあずかり)となっています。寛政2年(1790)の内裏造営の際、父とともに障壁画の制作にかかわっています。嘉永5年(1852)に73歳で没しています。なお。徐煕の鷺絵の写しは何人かの絵師により伝えられています。すべて同様の構図です。この土佐光孚(みつざね)軸もその中の一点です。松屋から本歌の鷺絵が流出する前に、松屋が光孚に実物を見せて臨模されたものではないかと思われ、松屋の格別な惜別の想いが込められているのではないかと思われます。



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葉ざくら

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