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洞(ほら」


 昨年の初釜で用いた鷹司兼煕(たかつかさかねひろ)筆になる懐紙「春竹契久」です。



洞の内にかへをく竹のうちなびき

君にと契る春や幾千世


仙洞御所に新たに院が遷られ、竹が風になびいて院の幾千代の春、すなわち御長寿を約束するようです。

「洞」とは仙洞御所のことです。「仙洞」は本来仙人の住む所をいい、昔の中国では仙人を理想的な人間像とし、仙人は俗世を離れて深山に隠遁することから、譲位した太上天皇の住まいの美称として「仙洞御所」という語が用いられるようになりました。さらに転じて太上天皇である上皇や法皇の異称としても使われました。また、嵯峨天皇が京都の嵯峨に御所を移して「嵯峨院」と称せられたことから、その後、太上天皇の異称としての院号が定着し「院」ともよばれました。

 この兼煕の和歌は東山天皇が中御門天皇に譲位し院となった宝永6年(1709)に詠まれたものです。 兼煕は五摂家のひとつ鷹司家17代当主で、元禄16年(1703)左大臣兼務のまま関白に就任し、藤氏長者となります。宝永元年(1704)に左大臣のみ辞職し翌年には従一位へと進み、同4年(1707)に関白を辞しています。享保10年(1724)に67歳で薨去しています。

 東山天皇は第113代天皇で、霊元天皇の第四皇子として誕生します。7歳のときに儲君(ちょくん)、すなわち皇太子となります。南北朝時代、北朝の崇光天皇の皇太子とし直仁親王がて立てられましたが、足利尊氏が一時南朝に下り、後村上天皇による南北両朝の合一がなされときにに廃されて以来、実に300年ぶりに「立太子礼」を経て皇太子となった天皇です。また、東山天皇は長く廃絶していた大嘗祭を復活させています。治世は23年で34歳の時に中御門天皇に譲位して院政を開始します。ところがまもなく天然痘にかかり36歳で崩御しています。なお、忠臣蔵の「松之大廊下の刃傷事件」は、東山天皇が江戸へ派遣した勅使と霊元天皇の院使の接待をめぐって発生した事件です。近衛基熙(もとひろ)の日記は、基煕が東山天皇にこの凶事について報告をしたときの天皇の反応について「御喜悦の旨、仰せ下し了んぬ」と日記に記されているそうです。浅野家は焼失した内裏の修理を行い、吉良義央は後西天皇の譲位にあたり幕府の様々な朝廷工作や圧力などに関わったことから不快感をもっていたことによるとのことです。そして帰京した勅使と院使の3人を、事件後、将軍へ何の取り成しもせずに傍観し、浅野長矩と浅野家を見殺しにしたと参内禁止の処分にしたとの逸話が伝わっています。

 中御門天皇は第114代天皇。宝永5年(1708)に立太子、同6年(1709)東山天皇から譲位されて9歳で即位しています。中御門天皇の治世には閑院宮家が創設されています。そして享保14年(1729)には将軍徳川吉宗が注文した交趾(ベトナム)広南産の象を霊元上皇ととも拝謁しています。この時、象が無位無官で参内する資格がないということで、急遽、「広南従四位白象」との称号を与えて参内させました。拝謁した象は前足を折って頭を下げる仕草をし、初めて象を見た天皇は、


  時しあれば人の国なるけだものも

  けふ九重に みるがうれしさ


と感銘を和歌に詠んでいます。また、天皇は笛や和歌、書道に秀で、特に笛はキツネが聴きに来るほどの腕前であったとの逸話が残っています。

 享保20年(1735年)桜町天皇に譲位し(在位27年)、元文2年(1737年)に36歳で崩御しています。天皇の生年は巳年で、崩御したのが巳年巳月巳日巳刻で、格別に巳と縁がああったそうです。

昨春、天皇陛下が譲位されて上皇となられました。そして現在お住まいの御所から御仮寓所として高輪皇族邸(旧高松宮邸) に移られ、現在の東宮御所の改修後に仙洞御所として移られます。生前に尊号を受けた最後の太上天皇(上皇)は仁孝天皇に譲位した119代光格天皇で、今回の譲位は6代約202年ぶりだそうです。なお、第62代村上天皇以来874年絶えていた天皇号(安徳・後醍醐両天皇を除く)を復活させ、「光格天皇」と諡されました。ちなみに冷泉院より後桃園院まで56代のあいだ院号が用いられていました。

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