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木津宗詮
2019年9月5日読了時間: 4分
初代松斎宗詮21 法要の形式
この法要は三千家家元が施主として、菩提寺である大徳寺塔頭聚光院で行なわれた。『空華室日記抜録』(愈好斎が、大綱の『空華室日記』の茶道に関することを抜書きしたもの。以下『日記抜録』)には、二百五十年忌は聚光院で施餓鬼法要として行なわれ、出頭の僧侶に食事(斎)を供養している。『...
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木津宗詮
2019年9月5日読了時間: 2分
初代松斎宗詮20 利休二百五十年忌遠忌法要
以心斎が失明し、義母の宗栄は悲嘆に暮れ髪を落として尼になりたいと大綱に訴え(12月5日)、諌められて断念している。また最晩年の一啜斎も、多大な期待を抱いていた好々斎に先立たれ、新たに迎えた以心斎も目が不自由となったことで、落胆の日々を送ったものと思われる。そして翌天保9年(...
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木津宗詮
2019年9月2日読了時間: 3分
初代松斎宗詮19 以心斎の後見
武者小路千家8代一啜斎(いっとつさい)に入門し、引き続き次代の好々斎(こうこうさい)に師事した松斎であるが、天保6年(1835)一月二十二日、好々斎が41歳で亡くなったことにより、松斎の立場も大きく変ることとなる。武者小路千家には好々斎の義父一啜斎と義母智法(ちほう)、妻の...
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木津宗詮
2019年8月24日読了時間: 4分
初代松斎宗詮18 大綱宗彦
大綱宗彦(だいこうそうげん)は、法諱を宗彦、道号を大綱、空華室くうげしつ・昨夢・向春庵と号している。安永元年(一七七1772)に京都に生まれ、定かではないが母は光格天皇の乳母であったと伝えられている。6歳の時に黄梅院の大徳寺409世融谷宗通(ゆうこくそうつう)に師事し、師の...
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木津宗詮
2019年8月24日読了時間: 3分
初代松斎宗詮17 松斎と徳川治宝
天保8年(1837)、松斎は徳川治宝より、還暦の賀として紅裏の小袖を拝領し、賀の茶事を催している。他にも甲冑と脇差が紀州侯から拝領としている。 松斎と紀州徳川家との関わりについての記録はほとんど残されていないが、間接的なものとして以下の事柄が確認できる。大徳寺の大綱宗彦だい...
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木津宗詮
2019年8月23日読了時間: 2分
初代松斎宗詮16 紀州家仕官
天保2年(1841)2月、松斎55歳の時、紀州徳川家に小納戸役(こなんどやく)として仕官し、十五人扶持を与えられている。松斎の紀州徳川家仕官の経緯の詳細については不明であるが、前出の通り、松斎の祖父にあたる願泉寺34世観龍は紀州家家臣堀田家から養子に入っている。また、参勤交...
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木津宗詮
2019年3月3日読了時間: 2分
初代松斎宗詮15 松斎と名古屋
文化十二年(一八一五)、松斎は大坂・名古屋において住宅や茶室の建築に携わっている記録が残されている。そして、名古屋の材木商鈴木惣兵衛(そうべえ)(一八二三〜一八九一)より材木を譲られ、梶木町に家を構え稽古を始めている。のちのことであるが、松斎は尾張徳川家の招致により、紀州家...
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木津宗詮
2019年3月3日読了時間: 2分
初代松斎宗詮 14平瀬春温
五代春郷の六男で、兄水が天保六年(一八三五)に亡くなったことにより、十八歳で家督を相続した。はじめ収五郎、のちに宗十郎と名乗り、士陽しようと号している。天保六年(一八三五)に家督を相続している。 春温(はるあつ)は茶の湯を松斎に師事し、武者小路千家十代以心斎の門人録には天保...
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木津宗詮
2019年3月3日読了時間: 1分
初代松斎宗詮13 平瀬水
五代水(すい)は文化三年(一八〇六)に春郷の子として生まれている。はじめ亀之助、のちに宗十郎と名乗り、士潤(しじゅん)と号し、文政三年(一八二〇)に家督を相続している。水は生来病弱であったため、義兄の呑光(どんこう)(勝古)が家政を補佐している。天保元年(一八三〇)、播州山...
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木津宗詮
2019年3月3日読了時間: 1分
初代松斎宗詮12 平瀬春郷
春郷(一七七〜一八二一)は半仙と号した。このころの平瀬家は経営が安定し、資産を蓄積していった時期にあたり、このころから茶道具の蒐集が本格化していく。茶道具の購入は純粋にその愛好と執着によるものと、財産保全のために投資するという側面もあったようである。柴田勝家が織田信長から一...
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木津宗詮
2019年3月3日読了時間: 1分
初代松斎宗詮11 帰坂
大坂に帰った松斎は、千草屋(ちぐさや)平瀬家に寄食することになり、二年後には梶木町(かじきちょう)に家を建て稽古をはじめている。大坂の地に武者小路千家の茶の湯を広めた。 千草屋平瀬家は、元、播磨国宍粟郡千草(はりまこくしそうぐんちぐさ)(兵庫県宍粟市)で鉄山を仕切る鉄山師で...
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木津宗詮
2019年3月3日読了時間: 2分
初代松斎宗詮10 一啜斎
松斎が師事した一啜斎は、宝暦十三年(一七六三)に、禁裏の地下(じげ)官人川越(かわごえ)家六代教賢(のりかた)の息子として生まれている。はじめは勝次郎、のちに以孝・方昌・宗守と名を改めている。また、休翁・円明(えんめい)・渓澗(けいかん)・半宝庵(はんぽうあん)・披雲庵(ひ...
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木津宗詮
2019年3月3日読了時間: 1分
初代松斎宗詮9 武者小路千家入門
不昧のもとでこの上もない最高の環境で茶の湯を学んだ松斎であるが、不昧は自らの流儀ではなく、敢えて武者小路千家の茶匠となるように取り計らった。不昧は自身の茶の湯を大成するために、家臣を他流に入門させ比較研究につとめている。また、参勤交代の途次に京の千家をはじめ薮内家を訪れるな...
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木津宗詮
2019年3月3日読了時間: 2分
初代松斎宗詮8 松平不昧の知遇
大崎下屋敷に隠居した不昧は文化元年(一八〇四)から同四年(一八〇七)の四年にわたり、二万坪、二万三千三百四十一両もの巨費を投じて大茶苑を造営した。晩年の不昧はこの大崎下屋敷で、名器蒐集と茶三昧の余生を送っている。その大茶苑は地形を生かした庭園と独楽庵(どくらくあん)はじめ喫...
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木津宗詮
2019年3月3日読了時間: 2分
初代松斎宗詮7 不昧の茶の湯
不昧は、幼少期には虚弱で、若年に及ぶにつれ逆に気質も鋭くなり、血気盛んで過度の失策もあったという。近習頭はこの性格を治めるために茶の湯を勧め、また精神修養のため禅に導いたという。そこで不昧は藩主となる以前から江戸屋敷で茶道に励むことになる。はじめ松江藩茶道頭の正井道有(どう...
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木津宗詮
2019年3月3日読了時間: 2分
初代松斎宗詮6 松平不昧
松平不昧は、出雲松江藩の七代藩主で、名を治郷(はるさと)といった。不昧は号で、他に未央庵(みおうあん)・一々斎(いちいちさい)・宗納(そうのう)などがある。ちなみに、不昧の号は、江戸天真寺の大顛(だいてん)が、『無門関』第二則・百丈野狐(ひゃくじょうやこの)「不落不昧(ふら...
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木津宗詮
2019年3月3日読了時間: 1分
初代松斎宗詮5 八百善
松斎は、いつのころか不明であるが、雅楽を広めるために江戸に下った。江戸での雅楽伝播活動は意の如くならず、たちまち困窮することとなった。松斎は自ら楽器を作る器用さがあり、同様に料理もできたようで、当時、江戸で著名な料理屋八百やお善ぜんの板場で料理人として身を寄せることになった...
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木津宗詮
2019年3月3日読了時間: 2分
初代松斎宗詮4 松斎と雅楽
松斎は早くから雅楽を嗜んでいたと考えられ、四天王寺伶人民部卿(してんのうじれいじんみんぶきょう)の名称は四天王寺に所属する伶人(楽人)であったことによる。 寛政十一年(一七九九)、松斎二十三歳の時、聖護院宮盈仁(しょうごいんのみやえいにん)法親王が役行者(えんのぎょうじゃ)...
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木津宗詮
2019年3月1日読了時間: 2分
初代松斎宗詮3 願泉寺と紀州藩
三十四世観龍の時、すなわち正徳四年(一七一四)に紀州藩の三代藩主徳川綱教つなのりが表千家六代覚々斎かくかくさいに命じて書院と茶室を補修させている。また紀州徳川家の参勤交代の途次、願泉寺が陣屋にあてられ、徳川家から三葉葵の寺紋を許されている。...
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木津宗詮
2019年2月26日読了時間: 2分
初代松斎宗詮2 願泉寺
寺伝によると願泉寺は、小野妹子の八男多嘉麿義持たかまろよしもちが、用明天皇二年(五八七)、崇仏派すうぶつはの蘇我馬子そがのうまこと廃仏派はいぶつはの物部守屋もののべのもりやの間に武力闘争が起きた際に戦功を立て、その恩賞として河内国日下くさかに田地を賜りその地に住したことに始...
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